« ジュアちゃんとナノンちゃん | トップページ | かふぅちゃん »

真田紐シリーズにNEWカラー追加

のんき屋の真田紐シリーズに新色2色加わりまーす♪Img_8439
Img_8440

↑朱×紺
Img_8441

茶×紺ストライプ

どちらもカッコいいですねgood

新色追加に伴って、PPテープのカラーに紺色も加わる予定です♪

HPにはまだ反映していませんが、

まずはまの字の首輪とリードを作ってみます♪お楽しみに~♪

<あらためて真田紐について>

縦糸と横糸を使い機で織った平たい木綿の紐で、特に縦のひっぱりに対して非常に強いのが特徴です。日本古来から美しく丈夫な木綿の紐として、武具、甲冑の装飾などに使用されていました。

名前の由来は、関ヶ原の戦いの後、九度山に蟄居していた真田昌幸、幸村父子と、その家族、家臣らが作成し、堺の商人を通じて販売したとされ、諸国往来自由の山伏や家臣(忍び)に「真田の作った強い紐~♪」と、行商させ、その傍ら販売ルートを通じて、来るべき風雲の為の情報収集をしたと云われています。(鬼謀術数の策士&オサレ武将 真田昌幸が刀の柄を巻くのにこの紐を用いたのが名前の由来とも言われています)

のんき屋ではこの真田紐の優れた特性と、美しく粋なデザインに惚れ込み、なんとか真田紐のワンコグッズが作れないだろうかと考え、試行錯誤の末、今から6年前になりますが、のんき屋真田紐シリーズが誕生しました♪

I23
I21

<真田昌幸&幸村父子について>

ココからはのんき屋じもんの勝手な脚色ありのマニアックなつぶやきに移行しますので興味の無い方には大切なお時間の無駄になります。さくっとスル-してください

時は風雲!戦国時代!綺羅星の如く輝くめっちゃ個性豊かな勇将猛将はあまたいらっさいますが、私にとってのナンバーワンかっこいい武将はやはり何と言っても真田父子でございます!!

戦国時代!真田!といえば、大阪冬の陣&夏の陣で大活躍して、多くの敵将から「日本一(ひのもといち)の兵(つわもの)」と絶賛され、「好きな戦国武将ランキング」にも常連ランカーである真田幸村を思い浮かべる方も多いかもしれませんが、私はむしろ幸村の父ちゃん「(天正13年以降の)家康が最も恐れた男ランキング」常連ランカーであった?(笑)真田昌幸の生きざま&人となりに惹かれるところが多いです

もともと真田氏は、信州の山ん中の弱小勢力であり、北から上杉、東から北条、南から徳川など強大な軍事力をもつ勢力の狭間で、「大勢力なにするものぞ」とのパンクな反骨精神と、全国に忍びを放ちそこからもたらされる情報で的確な戦略をたて、「権謀術数の策士」とか、次々と主君を変えることから「表裏比興の者(くわせもの)」と皮肉を言われながらも、自らの守るべきものを、独自の鬼謀と、瀬戸際外交で戦国乱世の荒波を泳ぎ抜き、やがて一族を大名にまで育てたベンチャー的発想の持ち主である昌幸は、この時代には非常に稀有な人物ではなかったかと推察されます

家康が昌幸を嫌っていた&恐れていたという事を裏付けるエピソードとして、

当時の真田の主君であった家康が、全然言う事を聞かない昌幸にぶちキレて、「おのれ昌幸め~これまで真田が独立を保つ事ができたは誰のお陰と思うておる~身の程を思い知らせてくれよう~」と、第一次上田城攻めの陣触れをだしたのは天正13年7月、真田討伐軍は七千の大軍でもって押し寄せたが、合戦は、昌幸お得意の鬼謀と天才的ともいえる攻城戦でコレを撃退し、真田方の完全勝利。徳川方の大将大久保忠世は味方のだらしなさに「腰抜けどもめがッ!どいつもこいつも、下戸に酒をのませたようなていたらくじゃー」と怒り狂っていたという。※ちなみにこの合戦勝利には真田の領民たちの協力もあった。外交、軍事面では近隣の大名の嫌われ者であり、上杉の「義の精神」を鼻で笑う昌幸だが、自分の領地領民に対してだけは若い頃から仁政をしいており、こたびの戦でも領民たちは「殿様の大事とあれば、われらも喜んでお味方つかまつりましょう」と、あたかも数千の伏兵がいるかと徳川軍に勘違いさせ、プチパニックに陥れさせたという(笑)それについて、「大殿が日頃から民百姓に仁政をしいてまいられた甲斐がございましたな」と言う家老池田長門に「民と申すものは、危急の時になって力で従わせようとしても、都合良く動いてくれるものではない。やはり、平素からのまつりごとのありようが、ものをいうものよ。情けも使いようということじゃな。ふっふっふっ」と、結構良い人な所もあるのに、あくまでちょい悪っぷりを貫くあたりが、かっこいいことはなはだしいですよね。

②あれこれあって、慶長5年(1600年)そう!関ヶ原の戦いのちょっと前、徳川の上杉討伐軍に合流すべく進軍中の昌幸率いる真田軍に一通のお手紙が・・佐和山城の石田さんからの有名なあのお手紙です(笑)。読んですぐ、家康嫌いの昌幸と幸村は西軍の味方に付くことにあっさり決めちゃったので、昌幸の長男、真面目で有能、義理がたい信之(徳川四天王の一人本田忠勝の娘小松殿と結婚)は「よもや父上は、徳川様を裏切ろうなどとお考えではございますまいっ父上は現に徳川様の軍令に応じて会津攻めの軍勢に参加しようとしておられるっ」と吠えると、昌幸は「やーめた!わしがいつ、家康めの家臣になった、わしがいかなる判断をしようが、それはこちらの自由よ。幸村とともに、これより信濃へ引きかえすこととする」そんなわけで、長男信之の堅実な意見を突っぱね、さっさと信濃に帰り、せっせと戦の準備をする(笑)多分この時の信之の気持ちは「おやじー俺の立場も考えていい加減大人しくしててくれ」と言う気持ちだったに違いないでしょうね(笑)当事者はともかく、第三者の私たちからすると相当面白い展開になってきたわけでありまして、予想通り、このことで家康は激怒、嫡男秀忠率いる三万の軍勢がまたまた上田城に押し寄せることとなるが(第2次上田城攻め)、コレを得意の鬼謀&あざやかな攻城戦で、撃退&先を急ぐ秀忠軍を足止めさせた。このせいで、秀忠軍は上田城攻めに大敗しちゃった上、あまつさえ大事な関ヶ原の合戦にも間に合わず父ちゃん家康にこっぴどく怒られてしばらく口もきいてもらえないということになった

ともあれ、1度ならず2度までも昌幸に煮え湯を飲まされた家康は、昌幸の長男で家康の家臣である信之の、父ちゃん昌幸&弟幸村の助命嘆願に対して、家康「何度も申しておるが、昌幸、幸村父子の助命ばかりは聞き入れるわけにはいかぬ。あの者どもを生かしておいては、あとあとに禍根をのこすことになる。」とか、信之「もはや、わが父に徳川に対して弓ひく意志は微塵もなし。あとはただ、花鳥風月を友に静かな余生を送らせてやってくださいませ」対して家康「真田安房守が静かな余生を望む男かぁ?、わしはあやつを知っておる。真田の存在はわしにとって鬼門じゃ。生かしておけば、必ず災いのもととなる」と、にべもなかった家康であったが、信之の舅の徳川四天王本田忠勝の「まぁまぁ~」的な、応援もあり、なんとか紀州九度山送りで決着がついた

それを聞いた昌幸&幸村父子

昌「高野山か。まずまずといったところだな。幸村」( ̄ー+ ̄)にやり

幸「絶海の孤島と異なり、この上田とも、大坂とも、地続きでございますからな。父上」( ̄ー ̄)ニヤリ

って!全然反省してない(笑)

九度山に配流になった後も、このバイタリティあふれる面白ろ父子は、真面目な長男信之(真田家当主)に、再三にわたり「金送れ」と仕送りを無心する手紙を送って困らせたり、真田紐製造販売や、庭でとれた柿やモモなどを水菓子にして京大坂の数寄者に売るなど、商売人顔負けの商いをしてそれなりに、悠々自適の暮らしをしていたらしいですね

その後は、大坂冬の陣&夏の陣においての幸村の活躍はたくさんの歴史小説の記す通りでありますが、その前に再起を夢見ていた昌幸父ちゃん、病気にてついに死んでしまう。配流から11年享年65歳!

③あれこれ時は過ぎ、配流から14年後、慶長19年10月9日幸村が大坂方の要請を受ける形で、大坂城に入城。14日家康の元に「真田が入城せり!!」との報告が入る。家康「ぬ・ぬ・ぬぁんだとぉう!!」驚愕して立ち上がり、思わず掴んだ戸が手の震えでカタカタカタカタカタと音をたてたと言う。「そ・そ・その籠城した真田は親か子かっ?!?!?!」「子の真田幸村でありますぅっ!!」まだ、幸村の本領を知らぬ家康はホッと胸をなでおろしたという話でございます。まさかその幸村に、大坂夏の陣にて、自らの金扇の大馬標をぶったおされるところまで追いつめられることになるとは、お釈迦様でも知らぬ仏のお富さん状態の家康公であったことでせう

「長いものには巻かれない巻かれてなるものか!」地方の弱小勢力でありながら、知恵と誇りを持って大勢力と伍してゆく!風雲戦国乱世を駆け抜けた、猛烈にカッコいい真田父子がプロデュースした真田紐!!!

いかがですぅ?皆様♪おほっ♪

|

« ジュアちゃんとナノンちゃん | トップページ | かふぅちゃん »

のんき屋道中ひざくりげ」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/1151451/59142189

この記事へのトラックバック一覧です: 真田紐シリーズにNEWカラー追加:

« ジュアちゃんとナノンちゃん | トップページ | かふぅちゃん »